03. たすけてお前がだいすきです <前編>





ジェラルミン硬貨が鈍く光る それを照らすのは 曇りガラスから零れる蛍光灯の青白いあかり

牡丹の花弁と花菱が散る 薄い胸にカリンの香りが匂いたつ オレはもうむさぼり たべる


羞恥なんて洗ってしまった

遠慮は燃やしてしまった

幼い心は沼の底だ


痛くはないかときいてみたら 痛くはないとこたえたから

あとはもう奈落に落ちる 落ちる 落ちる 昂りだけを砂場に置き去りにして














昼休み。
三橋は手洗い場から9組の教室へ帰る途中だった。ちょうど階段をおりてきた野球部員とはち合わせた。



「よ、みはし」
「さ、さかえぐちくんっ! は、よっ」



他人に圧迫感を与えない栄口の物腰をもってしても、心なしか緊張する三橋であった。
毎日おなじ教室で過ごす田島や泉との空気には慣れてきたが、
ほかのクラスのチームメイトたちには、迷いなく近づいていいものか、わからない。


三橋は栄口のことを慕っている。でも距離をつかみきれているわけではなくて。
なにかの拍子に嫌われてしまうのではないかと、
まだ自信を持てなかった。
そんな三橋の心情を知ってか知らずか、栄口の声はいつもどおり優しい。



「便所か?」
「う…うんっ。 さかえぐちくん、は?」

三橋たち9組が利用するトイレは、1組からは遠い。きっと別件があったのだろう。
栄口は、たったいまおりてきた階段を見上げる。

「天気いいから、ちょっと屋上で人と話してた」
「そ、そっか〜」




二学期の暮も近い、 11月。
晩秋の晴れ空は、すこし冷たいかもしれない。 でもきっと淡い日差しが気持ちいいだろう。
三橋は、はやく野球がしたいなあと思ったが、いまそれは無理な相談だった。
期末試験の部活休み初日に突入したばっかりなのだ。





「三橋、今回はべんきょう大丈夫か?」
「うう、う〜ん?」

三橋は煮え切らない表情で呻く。
おたんじょうび会騒動が記憶に懐かしい、一学期末の試験よりはいくぶんましなものの…
不安要素だらけだった。

「こ…古文の授業…おれいっつも寝ててっ」
もじもじと答える三橋。
いまになって、あわてて教科書を開いてみたが、読めはしても意味のわからない文字の羅列だった。
おなじ日本語とはおもえない。





「そうか〜。 じゃあ俺んちか、三橋んちで、一緒に古文勉強しない?」
「え、ええ? いい、…の?」

そういえば、栄口は古典が得意科目だったような。
探るように見上げたら、にっこりとほほ笑まれた。

「三橋がおぼえやすいように、コツ教えるし」
「ほほ、ほんと、う!?」



目を輝かせる三橋の顔には、「栄口くんは なんていい人なんだろう!!」 と書いてある。
臆病で怖がりなのに、疑うことをまったく知らない幼い顔をみながら、
栄口がそっとこぶしを握り締めたことなど、三橋には気に留めようがなかった。

「お、おれのうち…でっ! い、い?」 
自分を訪ねて人が来る。

高校生になるまでは、そんな些細なイベントに縁がなさすぎた三橋は、餓えていた。
招きたくてしょうがない。
来てくれたら、ウレシクテしょうがない。

「わかった。 じゃあ放課後寄っていい?」
あっさりと承諾する栄口に、三橋はますます表情を明るくする。
「うおっ…きて、ね!」

オッケー、と返答したあと、ふと栄口は天井を仰ぐ。

「あ、屋上に忘れもんがあったから、戻るよ。 またあとでな〜」
「うんっ また、 あ、あとで〜」




ひらひらと手を振りながら、栄口は階上に消えていった。 彼の背中は一度も振り返らない。
結局そのときの栄口の表情を、
喜びをかみしめることに頭がいっぱいだった三橋は、確かめることができないまま見送った。








 
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