03. たすけてお前がだいすきです <前編>





「いらっ、 しゃい〜」





玄関の戸をカラリと横に引き開けながら、栄口を招き入れる。
栄口は、学校帰りにそのまま三橋家へ立ち寄った。


「ん、おじゃましまーす」

足を踏み入れると、屋内には静寂が漂っていた。
野球場で何度も出会ううちに、すっかりなじみになった、三橋母の姿を探す。


「おばさんいないの?」
「きょう、は、 仕事遅いって…言ってたっ」
「へー」
けど、おやつはシュークリームがあるよ、とぎこちなく笑った三橋につられて、栄口もくだけた笑みをこぼす。


「さ、栄口くんっ…さきにおれの部屋に行っててくだ…さいっ。 おやつと、お茶持っていくから」

「え、手伝うよ」
「平気、だ、よー」

「じゃあ三橋のカバン、持ってあがっとく。 あと座卓だしとく」
「はい〜」

さっと台所に駆け込んだ三橋が、湯を沸かしたり皿をガチャガチャと鳴らす音を聴きながら、
栄口は二階の三橋の部屋へと向かった。












「おや、つ…持ってきた、よー」
気を利かせた栄口が、扉を開けて待っていた。



盆を受け取ろうと近づいた栄口の顔を見た瞬間、 三橋はあやうくお茶とシュークリームもろとも手から滑り落としそうになった。


「うっ、おおっ!?」

「わーっ! こぼれるっ」

栄口はぎりぎりのところで、三橋の手から盆を奪い取った。
その場にほかの人間がいたら、「ナイスセカン!」 と声をかけてくれたかも。
冷や汗を額に滲ませながら、 シュークリームをテーブルに避難させる栄口。

「ど…どうしたの!?」



三橋は呆けた表情で、うろたえる栄口の顔に目がクギ付けになっていた。

「さ。 栄口くんっ…! メ、メガネ!!」
「へ? あ、見たことなかったっけ? べんきょうのときは、たまにかけてんだー」

栄口は、度の弱い銀ブチ眼鏡の細いフレームを掴んだ。
うう、とか おお、 と小声でつぶやいた末、
こちらを凝視しながら三橋が口走った言葉は、栄口をぎょっとさせた。





「すご・・・くっ、 に、 似合ってるっ!! カッコイイ…!」
「いいってホメなくてっ!」

150キロ級の直球で褒めそやされては、いつも何気なく装着している眼鏡が恥ずかしくなる。
顔に張り付いてくる三橋の視線をふりきって、席に着いた。
たちのぼるダージリンティーの湯気が、室内を芳香で満たしていた。















「はー、二時間みっちりやっただけあって、 けっこう進んだよな」

栄口は、長時間ノートとテキストに向かい続けて、すっかり硬くなった体を伸ばし、パキパキと関節を鳴らした。

「う、うん! ありがとうっ」

三橋は、そろそろショート寸前だった。

隣で根気よく教えてくれた栄口の的確な指導の甲斐あって、古文の赤点は回避できそうだなあ、うへへ、 と
我ながら思っていた。


栄口が両肩をほぐしながら、視線を横に流すと、深く息を吐き、集中力を切らしてソワソワする三橋の横顔がある。
一区切りついた安心感に満たされた、血色のよい頬、長い睫毛の影。


「・・・・・・三橋」
「う、うん?」


キョロキョロと落ち着きなく彷徨う紅茶色の瞳と、 レンズ越しに揺れる眼がビッタリ合わさった。
まるい頬をやんわりと包む栄口のてのひらに、顔をしっかりと固定されて、覗きこまれていた。
カチャ、

メガネのフレームが、三橋の鼻先に触れた。


「う、」
曇りひとつないプラスチックレンズの奥から、大きな眼が自分を見据える。

(…怒らせた…の?)

三橋は戸惑い、おびえた。
目をそらしたかったが、許してもらえなさそうな雰囲気だと思った。




なにか栄口の怒りを買うようなことをしたに違いない。
人一倍温厚な人を怒らせてしまったことに絶望して、栄口の顔をまともに見られなくなった三橋は、
たまらず視線だけを外して泳がせた。

涙がじんわりと 水晶体に膜を張る。




すると
やわらかく冷たい肉感が、 三橋の唇を荒く食んだ。
















栄口の、 唇だった。








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