82 
曜日の無条件降伏 前編





「なんていうんだっけ、こういうの」  

三橋の部屋で、ある一角を眺めて栄口はつぶやいた。
そうだ。確か “ウォークイン・クローゼット” というものではなかろうか。
三畳間くらいの部屋ならすっぽりとおさまりそうな、人が歩けるほど中が広くなっているクローゼット。


「はー、こんなのアメリカのドラマぐらいでしか見たことないし」


収納といえば押入れでしょう、な栄口にとって、洋服のためにひと部屋ある家など恐れ入ってしまう。
栄口が三橋家のお金持ちっぷりをあらためて噛みしめていると、
頭にバスタオルを被った三橋がぺたぺたと裸足で歩きながら部屋に入ってきた。



「お、おまたせ……しま、したっ」
洗いざらしの髪から、ポタポタと水滴が落ちた。


「ちょ、おい、まだビショビショだよ」

慌てて駆け寄った栄口は、
三橋の頭を両手で包み込むようにして、髪に残った水分をバスタオルでガシガシと拭き取ってやる。
色素の薄い茶色の髪がふわりと逆立った。されるがままの三橋の表情は、バスタオルの陰に隠れていてわからない。


「う、うお、うう」
抗議の声か、
ただ戸惑っているだけか、そんなことはどうでもよい。
こういう状況に出くわすと、条件反射で身体が動いてしまう栄口だったから。


「よーし、任務完了」

最後にぽんぽん、
と掌で軽く頭を叩いて栄口が動きを終了させると、シャンプーの上品な香りが鼻をかすめた。
肌を桜色に染めた、風呂からあがりたてほやほやの三橋。 
嬉しそうな、
困っているような複雑な表情でもじもじしている。


「あり、が…とっ」
「いいって」

栄口はかなり努力して笑顔を作った。
そうでもしなければ、
悪魔の形相で目の前に立っているヤツに襲い掛かっていたところだ。
近頃ではすっかり好例となった週末の三橋家ご宿泊。一階には三橋の両親がいるというのに、これは心臓に優しくない。
葛藤する栄口の心も知らず、無邪気な三橋は首をかしげて挑発する。

「さっき…な、なにか、みて…た?」


「あ、え? ああ、三橋の部屋、クローゼットがすげー広そうだなって思ってたケド」
「くろーぜっと??」
「だってさ、オレん家の押し入れ、この1/3もないよ」
「オレ、服あんま持ってない……からっ、 ここ広すぎて…ガラガラなんだっ、よ」 

カタンと音を立てて、三橋はクローゼットの扉を開いた。



「うわっ、広っ!!」

三橋がいうとおり、クローゼットの中は栄口と三橋が二人でゴロゴロと寝っ転がっても十分すぎるくらいの空間がひらけていた。


「ウォークイン・クローゼットっていうんだろ? さっすが三橋家〜」

好奇心が湧いてきた栄口は中へ入ってみる。 なぜか「おじゃましま〜す」と言いながら。
クローゼットを珍しがる栄口が不思議で、三橋はぽかんとしていたが、慌てて一緒に中へと続く。
薄暗かった。
換気用だろうか、奥にある小さな窓から月明かりが中に差し込んでいる。
パチンとスイッチを入れる音がした直後、白熱灯の光がクローゼットの中を淡い色で照らした。



「電気も点くのか…いよいよ小部屋ってカンジだね」
「う、うん」

愉快そうに笑って振り返った栄口に、三橋はぎこちない笑顔で応える。
三橋の胸はなぜかウズウズする。クローゼットという小さな密室にふたりきりでいるせいだ。なんだか落ち着かなかった。
それは相手も同じ思いだったらしい。
栄口も急に口をつぐんで、じっと三橋を見つめる。
三橋は居心地の悪そうな顔をする。
上気している頬だとか、浮き上がった剥き出しの鎖骨とか、やや大きめのトレーナーのせいで際立っている華奢な手足だとか、
栄口は三橋から目が離せないでいた。


「あ……、も、外、でる?」

外へ出ようとクローゼットの扉へ伸びた三橋の右手に、栄口の手が重なった。 ギュ、と握り込まれた。

「え?」

三橋が驚いて振り向くと、
いつのまにか栄口が後ろから覆いかぶさるようにして、扉を開けようとする手を制止していた。
近すぎる距離に三橋の緊張が一気に高まる。
押し黙ったまま、栄口は三橋の身体をくるりと反転させると、縫いとめるように三橋の上半身を扉に抑えつけた。


「え、なん、で?」 扉を開けそこなった右手が、栄口の左手にしっかりと握られている。その力が強い。


「………もうちょっとここに居たいから」


はっとするほど低い声で栄口は囁くと、扉に押しつけていた三橋の右てのひらに、自分の舌を這わせた。



「ひっ」
ピクリ、と硬くなった三橋の身体から、石鹸の清潔な匂いがした。






82 金曜日の無条件降伏 前編終わり 

































































































































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