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この街にはおおきな時計台がある。 とてもとても古いが ロンドンの時計台にも遜色のない おおきなりっぱなそれは 街のシンボルだ。 とうのむかしに鐘が壊れているので リーン、ゴーン、と時間を知らせることなどいちども無いが なぜか歯車だけは錆び付きもせず もう何十年もカタカタとまわりつづけていた。 うわさでは 三丁目通り沿いの肉屋の主人が あまった脂身を麻袋イッパイに詰めて運んできては、 歯車ひとつひとつに油差しをしているものだから滑りがよいのだと、 花井が教えてくれた。 乾燥した葉に火をつけて くゆらせた黄色い煙を肺イッパイに吸い込む男達に囲まれていても、 痩せたスーツ姿の眼鏡をかけたコックが 見たこともないポルトガル料理をわんさか作っても、 ボッティチェッリが壁に塗りこめたような 美しく眠たそうな薔薇色のホホをしたジャンヌダルクが くるくるとテーブルの上で踊っていても 栄口は そのどれひとつにも興味がわかなかった。 (退屈だなァ) 鶏の足をいっぽん千切って 舌でゆっくりと味わいながら そんなことを思った。 窓の外でビュウビュウと飛び交う高速スピードの流星は 実は青い炎につつまれたガラス玉だった。 (オモシロいことはないかな) ごくりと ライム色のジュースを飲み干して 薄荷のチョコレイトを銀紙の中に戻しながらおもった。 「この街に ポリスマンが来るんだってさ!」 隣りでぐうぐう寝ていたはずの田島が 突然ぱっと飛び起きて叫んだ。 「へえ。何をしに?」 栄口の目の輝きが少しだけ増した 「きまってる、 "犯人"を捕まえる為だろ?」 それはもっともな意見だと 頷いた。 しかしこの街で 『犯人』 とは 誰を指すのだ? 「見に行こうぜ!」 明るく笑った田島の姿はもうなかった アパートメントの35階だってこともお構いなしに飛び降りて 時速70キロのまま駆けていった。 栄口は 裏庭に泊めておいたボートで水面を蹴りながら 田島の後を追った |
「どこへいってしまったのだろう?」一時間ほど小船で彷徨ってみたが 田島には会えなかった そうこうするうちにムラサキ色の霧を 銀のたてがみのライオンが吐き出しはじめたので あたりはすっかり視界が悪くて自分が何処にいるのか いまが昼なのか夜なのかも判断がつかない 「やれやれ・・・」 腰掛けて肩肘をついたまま 栄口はそのまま目を閉じた。 ポリスマンなんてどうでもよくなってきた。 そのとき。 「どっ・・・、どう、どうし、まし、た・・・か??」 栄口の事を上から見下ろしている者がいた。 「なんでそんなこときくの。」この街でそんな言葉をかける人間などいない。 いや、人ではないのかも。 「それ、は、俺が・・・っ ポリスマンだからです!!」困りながらも答えた声に 栄口はびっくりした。 「きみはだれだ!!?」 わざと大きな声で ポリスマンと名乗る者の腕をとって 自分の体の上に引き倒すと ふわり、と夾竹桃(キョウチクトウ)の涙の香りが栄口の胸を満たした。 「ミハシ、 ミハシ・・・レン。」 霧にむせながら ポリスマンはチェリービーンズの唇を開き、 純白の歯列と、桜貝のような舌を覗かせた。 その光景といったら。 (ああ!! おれが"犯人"であれば、 どんなによいだろうか!!!) 栄口は心からそう願った。 がちゃり、 手錠のかかる金属音に縛られて 永い眠りから覚めたクジラのように 呼吸をはじめた新生児のように 時計台から急に鐘の音が共鳴しながら 街中に響き渡った。 「おお。この街で誰かが恋に落ちるのは 何十年振りだろうかなあ。」 年老いた燈台守の夫婦が穏やかに笑いながら 懐かしい目をして時計台の歌に耳を澄ませた。 (34 忘却時計台) |
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