70 凍てつく感情の数え方も知らないで
02
「せんぱいのこえがした。」
「・・・ん?あれ。」
どうも様子がおかしかった
空を切るような鉄拳も、ハンマーのように重たい蹴りも
木暮の上に振り下ろされはしなかった。
自らをかばう上腕を目の前からゆっくり退けると、木暮の視界には流川の佇む姿があった。
腰を抜かした木暮の前で棒立ちになったまま、攻撃してくる気配はない。
「る?るか、わ?」
命拾いはありがたいが、いつもとは様子の違う後輩に、かえって不安を覚えた。
流川の瞳は、焦点が定まらぬ。しかし黒曜石のように、深い色をたたえている。
単に眠いだけの半開きの双眸が、この男だと愁いを帯びた魅力的なまなざしに、見えないこともない。
「ん? 先輩」
「はい?」 いけない、つい敬語で。
「声がしたんス」
「え、」 そういえば昼飯がどうとか言った。
でもおまえ、一度眠りこけたら たとえ赤木の雷が頭上に落ちても、起きたためしがないじゃないか。
しかも、普段に比べて、すらすらと言葉をつむぐ流川、 怖いし気持ちが悪い。
流川は
ぬ、とおおきな掌を伸ばすと、木暮がぶちまけた弁当の残骸を、のろのろと片付け始めた。
信じられない事態の連続に、木暮は動けない、開いた口がふさがらない。
「どうぞ」
「うわー、ごめんなさい!! やっぱ怖い!!!」
散らばったご飯やおかずを弁当箱へきっちり収め、手渡してくれた流川だったが、木暮の恐怖心をますます仰ぐだけで。
一目散に、逃げた。
屋上には、やはりぬぼっと直立したままの流川だけが、五月の薫風に吹かれながら、とり残されていた。
「・・・って、ことがあって。」 3年6組の教室では赤木が、木暮から屋上での恐怖体験を聞かされている。 にわかに信用し難いが、六年来の付き合いとなる親友が、自分に嘘をついたことはただの一度もない。 「それは、寝ぼけてたんじゃあないのか?」 「寝ぼけていても、十中八九、流川は襲ってくるだろ!」 それもそうだ。あいつは、眠ったまま自転車通学だってできる。 ≪先輩の声がした≫・・・とな。 流川は睡眠中の意識の中で、木暮の声を認識していたのだろうか。 どこかでコレに似たような例がなかっただろうか。 「木暮。 犬や猫はな、主人の声や足音を、聞き分けるらしいぞ。」 「な!?なんだよそれ?!」 「いやだから」 (おまえ、猛獣使いだろうが。) 駄々をこねる桜木を褒めて宥めて、流川の足りないボキャブラリーを解する、湘北バスケ部の”アメ”。 ”ムチ”は赤木で。 あの一年坊主二人は、木暮に懐いていると思う。 「まあ悪いことじゃない」 便利だから、これから流川を起こすときは、木暮にやらせよう。 ぽんと肩をたたく、そんな主将の思惑を、副主将は知る由もなかった。 閑話休題。 いっぽう屋上では。 「・・・・・??何故 手に米がくっついているんだ???」 ようやく覚醒した流川が、ご飯粒だらけの自分の掌を見て、首を傾げていた。 やはり、寝ぼけていたらしい。 |
これ・・・ルグレ?? 二人の物語はまだ始まったばかり。
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