75.ダウトコール 06-4






 




三橋は足が速い。


野球部全員でランニングを競えば、
水谷がどれほど必死になって手足を振りしきろうとも、三橋はそのずっと前方を疾走している。
いつだって後頭部しか見ることができなくて。
いつだって、
あの光に透けて 淡く輝く茶色の癖っ毛は、ふわりふわりと揺れながら
水谷のもとを遠ざかっていくのだ。


すうっ とラインが一本引かれたような、華奢で奇麗な背中を見送るばかりで。

いつまでも追いつけない。






(ああ、そういえば)


試合中のグラウンドでも、
水谷は、ずっと三橋の背中ばかりを見ていた。

細いけれど、マウンドではしゃんと伸びる彼の背中は、
水谷の目にはとても小さくて遠い代物で。
くしゃりと折れてしまった時でさえ、駆け寄って手を差し伸べることはできなかった。









と、いうわけで。



(三橋とふたりきりって初めてじゃない?)

水谷は千載一隅の状況にあった。



泉と阿部が後を追ってくる気配もない。
沖が身を呈してふたりを足止めしてくれているに違いない。
少しかさついた、投手らしい三橋の手を、しっかりと握る自分の掌がたちまち汗ばんだ。
右の肩越しに視線を運ぶと、三橋の紅茶色の瞳とかちあう。


その距離 ・ わずか数センチ。



「ひいいっ!!」
…つい悲鳴を上げた。

だって、今日はあまりにも三橋が近いから。


「ううっ!? み、ミズ…タニく…? え、…ゴ、ゴ…ゴメ…なさっ!」


根っからのビクビク体質な三橋、
絹を裂くような水谷の声に、自身がなにかマズイことを仕出かしたと焦った。


「な、なんであやまってんの? イヤ、ちがうから。びっくりしちゃっただけだから」


糸のように細めた目を精一杯垂らして えへら、笑う水谷の気の抜けた顔。
それを見た三橋は、ようやく落ち着きを取り戻した。


「びっ…く、り? した、の…な、に?」


三橋はコトンと首を傾げた。

日没したばかりの空は、闇の色がじわじわと浸透しつつあるが、まだ明るさをうっすらと帯びていた。
しかし
水谷と三橋がたたずむ森の中では、
生い茂った木々と葉が、太陽の名残をいっさい遮っていた。




暗闇の中で敏感になった嗅覚が、
森林の香りに刺激される。
吐息がかかってしまいそうな至近距離に、
三橋が立っている。
握りあう互いの手のあたたかさが、ふたりの接近をなによりも雄弁に物語る。

腰が砕けそうで、
水谷はあはは…と馬鹿みたいに笑って誤魔化した。
三橋の問いには答えたくなかった。



答えてしまえば、

この世界がゆるやかに崩れてしまう気がしたから。











三橋の手をさりげなく解放すると、水谷は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

溜息を長々と吐いて三橋の顔を見上げた。
自分の顔は
たいそう情けないだろうなと、思った。
いささか低くなった視点から上空を仰ぐと、トロリとした山吹色の満月が枝葉の隙間から水谷と三橋を見下ろしていた。


「み、みずたっ……クン…疲れ…た?」


急に電池切れの機械人形みたいに、
ガクン とその場に座り込んだ水谷に、三橋は気遣わしげな瞳をオロオロと向けた。
唇をぐっと引き締めて三橋を凝視する水谷の額からは、汗が伝い落ちてポトリと衣服に染み込んでいった。


「具合…悪い…?」


三橋は中腰になって地べたに座り込んだ水谷を上から覗き込んだ。
水谷は返事をする代わりに、
黙って三橋の腰に両腕を回して、抱き込むように自分の方に引き寄せた。


「う、わ」


中途半端な体勢のまま、いきなり腰を抱き寄せられた三橋は、
前のめりに倒れそうになる。
バランスを取ろうと慌てて身近なものに手を伸ばすと、水谷の頭を捕まえて腕の中に抱えてしまう結果となった。
汗とほこりの匂いを微かにさせながら、水谷の髪は三橋の胸元にサラリと流れた。


「うひ、み…ずっ……っ」


水谷は三橋の腹に鼻っ面を潜り込ませて、ぐりぐりと押し当てる。
三橋はくすぐったがって、 うひゃうひゃと表情を緩ませながら仰け反った。
飼い主に甘える犬のような仕草に、
ああ、
このあいだ、アイちゃんにも似たようなことをされたっけ…(抵抗する余地もなく)と、
臍のあたりでモゾモゾと動く感触に耐えながら、三橋は考えた。
アイちゃんにこうされた時は怖かったんだけど。


(み、水谷君は…たくさん走って…疲れちゃったんだ…なっ)

いま、この瞬間、どうやら自分はチームメイトにとても頼りにされているみたいだ。
めったに味わうことのない誇らしさを感じた三橋は、なんだか様子がおかしい水谷を気遣う余裕と勇気を発揮した。


「だっ、だいっ…じょ、ぶ…です…かっ?」


三橋はぎこちない手つきで、よしよし、と労わるように水谷の背中を撫でた。


「も…すぐ、終わるっ…よっ。 ここ、で、や、休む…っ?」

タイムリミットまであとすこしだし。
ゲームセットまであとすこしだし。

囁くと、
水谷の両腕が、すがりつくように身体にまとわりついてきた。
三橋のみぞおちに顔をうずめたままで、くぐもった声がようやく水谷の口から漏れ聞こえてきた。






「終わるまででいいから。今だけでいいから」



こうしていたいんだ。




祈るような声。
三橋の耳には そう、聞こえた。


(つづく)





亀更新ですみませんっ…。
この先をどうしていくか…最終章はちょっと苦戦中です。
つづきます〜。
  


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