カノミハの「ノ」…ノクターン
たとえばそれは 円舞曲 「ワルツ」 胸に描くのは 間奏曲 「インテルメッツォ」 言葉にならないものは 狂詩曲と協奏曲 「ラプソディー&コンチェルト」 戻れない時間を饗する僕らは 寄り添って夜想曲を奏でます 「ノクターン」 ほんとうは 忘れるはずもないのです! けれど少しも賢くない僕らは 声を上げて泣くことを忘れていました たった30センチ手を伸ばしたら 抱き合えることを覚えていませんでした 饒舌さを失い 傷を舐めるときの血の味が嫌いではありませんでした ほんとうは 忘れるはずもないのです! 「修ちゃん、修ちゃん」 コンコン、と人目をはばかるように。 ふすまを小さく叩く音が、 膝を抱え頭を垂れていた叶の耳に届く。声の主が誰なのか叶にはすぐわかる。 たとえ暗闇に支配されて居たって、 彼の声だけは聴き違えないだろう。 「廉まだいたのか」 闇に閉ざされた四角い空間の中から、叶が外へ向けて話しかけると、 ふるり、とふすま一枚を隔てた向こう側に座っている気配が震えた。 右、 左、 左、 上、 下、 右、 …そして正面。 見えなくてもわかる。 彼の視線がどの方向を彷徨い、最終的にどこにとどまるのか。 つまり、三橋は叶を心配しているのであった。 押入れに身を隠したまま出てこようとしない叶に戸惑っているのであった。 「ど、う、…した、の?」 かさりと、衣擦れのような音がする。三橋の掌がきっとふすまに触れたから。 叶は聴覚にだけ神経を集中させて、 闇を睨んだままじっとしていた。 身動きひとつせずに、息をひそめて、座っていた。 いつのまにか、ずいぶんとでかく育ったもんだ。 押入れの中で窮屈そうに身を縮めている自分の体の成長をふと思う。 いつからだろう、こんなにもすべてが小さくなっていたのは。 足を伸ばして寝そべっても平気だったのはいつまでだったっけ? 暗闇が怖くてついガタガタと震えていたのは誰だった? 「しゅ、う、ちゃん、寝て…た、の?」 返事のない叶に不安になったのだろう。 もう一度、三橋の声が問いかける。 恐れの色はない。どちらかといえば、慰めているような声。 まだこの場所がいくらか広いと感じられるほど小さかったあの頃、 かつて叶と三橋は、 この狭くて暗い場所で日が暮れたことにも気がつかず 飽きることなくずっと遊んでいた。 いつのまにやら二人して眠りこけていたこともある。 互いの声と呼吸と体温だけが頼りだった。 なにも見えないから、この暗闇の中ではそれが自分たちのすべてだった。 叶がふと呟いた冗談に、三橋が押し殺した笑い声で応え、 ギュッと手を握ると、 嬉しそうに握り返してきた指先はいつも少し荒れていた。 身を捩るのもままならないほど狭くて、両腕を伸ばすとあっけなく相手の体に届いた。 鼻先を撫でる息がくすぐったいと、三橋は首を傾げてまた笑う。 愛おしさの意味も知らずに ずっと触れ合っていた。 忘れるはずも、ない。 向こう側で三橋がふすまに頬をあて溜息を吐く気配がした。 叶はハッキリとした声で応える。 「寝てない」 俺は幾つになった。 三橋が帰ってしまうのがそんなにも厭か? ばかでかくなった体を無理やり過去の想いと共にこんなちっぽけな場所に捩じ込んで、 駄々をこねて三橋を困らせる。 淀んだ空気に酔いそうだ、 外気に触れれば寂しさを再び吸い込むことになる。 それでも、三橋が自分のことを呼ぶので。 ススッ、と乾いた音を立てて戸を引き開けると、 息苦しかった闇に光の筋が流れ込む。 明るい空間に縁どられた、三橋の泣きそうな顔がそこにあった。 「も、帰らな、きゃ」 唇が震えている。でも、けっして泣くまいと堪える表情。 叶はたまらなくなって三橋の引きつった頬に掌を押し当てたら、 三橋は叶がうろたえるほど嬉しそうに微笑む。 なんて小さなことでこれほどまでに喜びを示すのか。 そうだ、ちっぽけなことが嬉しかった。 ふたりがいっしょなら、ささやかなことが特別な意味を孕んだ。 膝をついて、両手をついて、叶は押入れの中からズルズルと這い出る。 立膝をついて後ずさろうとした三橋の身体を腕の中に捉え、緩く締め付けた。 「またいつでも来いよ」と精一杯それだけを言うと、 「うん」と短い返事が戻ってくる。 俺たちは、さようならと言うのは永久に放棄するのだ。 |
群馬に遊びに来たけどもう帰る三橋とそれを見送りたくない叶。
なんとなく前作から続いているような話になったので、
次回以降も連作短編ふうにしてみようかと思います。
余談ですが
この叶は押し入れで三橋にあんなことやこんなことを、すでにしちゃってます(笑)。
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<次なるお題は…>
ミ…みっつ数えたら
ハ…はじめてはいつもいつだってきみと