ぎぃ、と小さな軋み音を立て、その扉は案外簡単に開いた。
風が入り込んでくるのを感じると同時に青い青い空が視界に飛び込んでくる。少しだけ目を細めながら、織田は屋上へ出た。
横に視線を向ければフェンスに寄り掛かっているのは叶の姿。普段クラスで見る姿ともマウンド上で見る姿とも異なって見えるのは、おそらく文字通り「心此処に在らず」状態だからであろう。
――あいつは、本当に――バカだからな。
畠の言った言葉が脳裏に蘇る。まあ対西浦の試合を見てもその通りだろう。
けれど織田はそれを自分が入ってはいけない領域だと割り切ったり、むやみに口を挟むつもりはない。ただ叶がどのような思いでいるのかは知っておいてもいいだろう、という軽いスタンスでいる。
「おーい、かのー」
間延びした声をかけると、彼は振り返った。猫目が歪んで、あからさまに嫌そうな顔である。
それでも織田は気にせず近寄る。何も知らない自分の特権だと知っているから。
叶は多少身じろぎしたものの、特に織田を追い払うでもなくまたフェンスに寄り掛かって遠くを見やる。
「何の用だよ」
「つれへんなー。チームメイトが様子を見に来てやったっちゅーのに」
「…知らねー」
叶は子どものように頬を膨らませてそっぽを向いた。
昼休みになるといつの間にか叶が皆の輪からいなくなっていることは、前々から気づいていた。ただ誰も何も言わないので織田としても特に言及するつもりもなかった。
けれど、西浦との試合を機に大体の理由は呑み込めた。叶は大勢の中にいるとどうしても「彼」を思い出してしまうらしい。その大勢が賑やかで楽しく、幸せであればあるほど。
それはおそらく、あの小さな「彼」がかつて大勢の中にいられなかったことに起因しているのだろう。今「彼」は西浦で幸せにやっているからもうそんな心配も後悔も懺悔も必要ないのかもしれないが。
――まー、惚れた相手じゃ仕方ないやろなあ。
今三橋は幸せだから。だから余計に考えてしまうのかもしれない。
織田は叶の隣でフェンスに寄り掛かった。遠くを鳥が飛んでいくのが見えた。
「あれ、鳶かー?」
「さーな」
叶はきっと鳥なんか見ていないのだ。ただ、まっすぐ三橋を追いかけて追いかけて。
「なあ、叶」
もしかしたらそれは辛いことかもしれない。過去は消せないだけではなく、今にさえ巣食って未来を脅かす。三橋も遠い西浦の地で、同じように迷ったり悩んだりしているのかもしれない。
「なんだよ」
それでも、きっと。
織田は横目で睨まれて笑った。
「お前、幸せもんやなあ」
「……そーか?」
「おう、めっちゃ幸せやろ。あんないい子のこと、好きでいられて」
叶の瞳が大きく見開かれる。アーモンド形の猫目に浮かぶのは純粋な驚愕。
想って想われて。それが、どれだけ幸せなことか。
きっと叶と三橋が誰よりわかっているはずなのだ。
「お前のために泣いてくれたんやで?それを幸せと言わずに何て言うんや?」
「……嬉しい?」
「同じやろ〜」
笑うと、叶もようやく笑った。多少苦笑混じりだったけれど。それが自分自身へのものだと織田にはよくわかった。
過去に引きずられるほど想い合えるなんてどれだけ三橋好きなんだろうと思う。
――あいつは、本当に三橋バカだからな。
ホントやな、と心の中で畠に同意した。でもそれ言ってるお前、結構幸せそうやったで、と付け加えて。
「ま、応援しとるから。頑張れや」
「言われなくても」
マウンド上で見せるように不敵に笑う叶は自信たっぷりで、西浦の面々には負けないと顔に書いてある。
「それにあの子可愛いしな〜」
「………は?」
「廉ちゃん、やったっけ?」
瞬間、叶の目が冷やかに細められた。織田は惚気出すことを予想して切り出してみたのだが、あれっともしかして失敗?
叶の背後から黒々としたオーラが見える気がして織田の頬に冷汗が浮かぶ。
「れん…ちゃん…?」
「あ。いいいや、なんかかわいらしー名前や思って、それだけやって!別に他意はない!ホントや!」
手をぶんぶん振って弁明する。身体の小さな叶にずっと背の高い織田が押されている図は傍目から見ると妙だったが、このエースがいかに強靭な心の持ち主かということはしばらく共に過ごしてよくわかっている。
叶はそれでも警戒を解いていないようだったが、フンと鼻を鳴らすとまた遠くへ視線を飛ばした。
「廉、かわいーだろ」
「お、おう」
「お前にはやらないからな」
「へいへい…」
「手を出したら殺す」
「…あのな叶、あまり物騒なこと言わんといてくれ。冗談に聞こえへんよ」
視線を合わせず叶は吹き出した。まったく、と織田は呆れて、けれど彼は意外と元気そうなので良かったと思う。
叶は自分と三橋だけのことだと思っているのかもしれないが、実際は周りを巻き込んで初めてチームなのだ。もっと相談してほしいし、頼ってほしい。そうすれば、少しくらい二人の後押しだってしてやれる。と思う。
後押し。そうか、後押しか。
「今ちょうど昼休みやろ、西浦も。電話でもかけてみたらどうや?それこそ俺のものに手ー出すなってことで」
「えー…」
「なんや怖いんか」
「んなワケあるか」
叶はズボンのポケットから携帯を引っ張り出した。こんな子どもみたいな挑発に乗ってくるあたり、よほど三橋のことが好きなのだろう。というか、心のどこかではいつも三橋に電話したいとは思っていて、それでもできないでいるのかもしれない。
なにやら微笑ましいことで。言ったら首でも絞められる気がするので心の中でそっと呟く。
叶はすぐに三橋の携帯を呼び出す。きっとアドレス帳では別枠にしてあるに違いない。今度こっそり確かめてやろうと織田は心に決めた。
「あ…廉?俺。ごめ、今大丈夫か?」
三橋の声を聞いたらしい叶の顔と声は、他の誰へとも違うもので、スイッチが切り替わったようである。ものすごく甘くて、ものすごくやわらかくて。恋とはすごい。
そう考えていると少々遊び心が出てしまうのが人の性、というものだろう。
叶の手元に照準を合わせて、いざ。
「うん、俺は元気だよ。他の奴らもみんな――ってオイ織田!?」
「やーこんちわ、三橋くん」
『しゅ、しゅうちゃんっ!?』
電話口でえ?え?と不思議そうな声を上げる三橋の姿が容易に想像できた。それはまあ可愛らしいもので、けれど人の恋人を横取りする気など毛頭ないので黙っておくことにする。
「俺、三星の織田。この前の試合ではありがとな〜。楽しかったで〜」
『あ、よ、四番、の!』
声が嬉しそうに跳ね上がる。本当に野球が大好きなのだな、とそれすら好ましかった。
「今度また試合しようなあ」
『は、いっ!』
「はは、タメ口でいいんやで〜」
「返せ織田!てめぇブン殴るぞ!」
「あーあー叶がうるさいなあ〜ごめんな三橋くん、君の彼氏すっごい焼きもち焼きやなあ」
『……』
「……」
織田の言った一言に、三橋が、そして叶が黙りこくった。その場に落ちる沈黙。
いい感じで場が和んだと思っていたのにあれ?と織田が首を傾げると、叶が握り拳を固めてふるふる震えだした。
その顔は茹でダコも驚くほどの赤さ、で。
「織田…!」
『かかか彼氏って、え…!?』
正面と電話口から同時に聞こえた情報に、織田は口をあんぐり。
「お、お前ら付き合うてるのと違うん!?」
「許さねーぜって許さねー!」
『う、うえ、あう、』
「うわああ待て叶!落ちつけー!?」
「そりゃそんだけ惚気られたら『そう』やって思うやん!?」
織田は叫びつつ、それでも、これがきっかけになったりしたら覚えてろや叶、と内心では思いつつ、怒り狂って赤面したエースから逃げるため屋上から飛び出した。
終
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